ゆうじです ^ ^
昨日はクリスマスイブでしたね。
あなたはどう過ごされましたか?
僕は、ここ数年の恒例となってますが
夫婦で大ファンになっているレストラン
『hoshizumi』に行ってきました^ ^
とにかく、僕らの中ではすべてが素晴らしい!
クリスマスの終身予約制があるなら
入れたいくらいです^ ^
昨日も美味しい食事と接客にごちそうさまでした。
さて、今日は
「慈悲」について
★。。…★。。…★。。…★。。…★
あなたは慈悲という言葉聞かれたことありますか?
「慈しむと「悲しむ」が合成された言葉です。
意味は
「慈」はサンスクリット語でマイトリー(友情)にあたり、
深い慈しみの心をさします。
「悲」はカルナー(同情)にあたり、
深い憐(あ われ)みの心をさします。
生きとし生けるもの、つまり
「すべての生き物に幸せを与えるのが『慈』
不幸を抜き去るのが『悲』である」
というのが
慈悲の捉え方です。
ただ、僕は前から不思議に思っていることがあって。
それは、サンスクリット語を日本語訳にしたとはいえ
字面で見ると”慈しむ”と”悲しむ”
なぜ、慈しむことが悲しいのか。
という点です。
ところが、最近僕の中で腑に落ちました。
それは
人は悲しみを知ることで
人生をより慈しむことができるようになる
人に対しても、慈しみを感じることができるようになる
と。
たとえば、
近しい人、大切な人が亡くなった時
失恋も含めて、別れなければいけなくなった時
当然悲しみますよね。
その悲しみから得られるものが
何もなく
ただ辛いだけでは、その人の人生は辛いばかり。
年を重ねるのがどんどん辛くなる。
それ、天国に逝かれた方も心残りだと思うんですよね。
成仏できない。
別れたくなくてもやむなく別れなければならなかった人も
すっと心残りとなります。
だから、悲しみから何が得られるかという視点で
故人の悼みをとらえた時
別離から心の痛みをとらえた時
「いま命あること」
「私は私の人生の歩んでいられること」
を、慈しむことだと思えたんですね。
これは決して慈悲の一般的なとらえ方ではないですが
僕の中では、そう思うことで腑に落とせました。
それを般若心経エッセンスの「無常」と「無我」
に当てはめた時
「無常」が時間を慈しむことであるなら
「無我」が人を慈しむこと。
そしてそれらは、悲しみの中から、
慈しみをより感じることができるようになる。
これはあくまで個人的な見解です。
今日も読んでくださり
ありがとうございます。
おかげさま(=^x^=)
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