グラウンドゼロの私

私は日常的に瞑想をする習慣がついています。

と言っても、かしこまったものではなく、朝起き抜けにほんの数分間目を閉じてアファーメーション(前向きな宣言文)を唱えるついでに心を鎮めたり、仕事の前に5分~10分間ほど行ったり。

あとは、ふと気が向いた時にもします。

昨日のことです。

私は『※予備リーディング』を作成しようと机に向かいました。

※予備リーディング:スピリチュアルカウンセリングの予約が入ると、その方と会う前に予めやっておく透視。透視の予習みたいなもの。コースによって色々な種類やサイズの絵や文に仕上げ紙に描き、セッション後にお渡します。

予備リーディングを書く紙にはその日の日付を入れるのですが、

日付の文字『9.11』を眺めた私は「これは何か重要な数字だったような…」

という想いに駆られました。

そして思い当たりました。

そうか。今日はあの日だったか。

誰もがそうであるように、私も2001年のあの日、TV画面に映し出された映像を忘れることはできません。

予期もできず、望んでもいないのに、自分の思惑と一切関係なく、

一瞬にして今まであったものが崩壊し消滅する。

その虚しさと絶望と、腹立ちと、やるせなさ。

あの日のあの瞬間からすべてが変わってしまった。

大切な人を失った人や、ケガやトラウマで一生消えない傷を負った人たち。

今どんな思いでこの日を迎えているのだろうか。

私は手を止め目を閉じ、瞑想を始めました。

祈りたかったんです。

眼を閉じると、グラウンドゼロと呼ばれるようになった事件の跡地が視えてきました。

モニュメントと、その周辺に手向けられた沢山の花束、写真や捧げものの数々が視えました。

空は柔らかい青色で薄い雲がかかり、穏やかな天候でした。

私の閉じた両の瞼から涙が溢れ零れ落ちました。

しかし心に浮かんでいたのは、悲しみではありませんでした。

もう戻ることはない過去をずっと悲劇と憎しみの色に塗り重ね続けるのではなく、

誰かの大切な人たちが生きていた証しを輝かせ、愛を思い出すアイコンとするために。

嘆きと憎悪の場所を、永久に消えない愛の聖地にするために。

そういう想いで全身全霊で祈り、

それを胸に抱き、

過去ではなく今と未来を生き、

それらを素晴らしいものに変えるチャレンジをするために、

前を向いて生きていく。

そんな想いでした。

人生には紆余曲折がつきもので、

不条理な出来事により大切なものや人を失うことは誰にでもいくらでも起こります。

それとどう向き合うのか。人生の質や真価はそこに問われると思います。

一時は混乱の渦に放り込まれてしまうと思います。

悲運を呪い、すべてを恨み、復讐しようと思うでしょう。

それも人の自然な反応です。

ただ、

そうした嵐が長引けば、その人自身だけでなく、周辺の人たちにも暴風の爪痕が残るでしょう。

嵐の中心地(グラウンドゼロ)である自分自身も、その人生も、もっともっと傷つくでしょう。

去った嵐を追いかけ続けて濡れ続けることをどこかで止めて、

嵐の後の快晴をまぶしく見上げる人のように、顔を上げられる人で在りたい。

私はそう思いました。

きみこ