違う価値観を赦せない価値観

“価値観の多様性”
妙に惹かれます

価値観の多様性を認めることは、人類が共通して抱えるテーマですね。
価値観の違いを認められないことが対立を生み
紛争を生み
やがては戦争を起こします。

随分減ってきたとは思いますが、僕の中にも多様性を認められないところがいまだあります。
なので、僕の中でも永遠のテーマなのです。

自分の価値観と他人の価値観
近ければ共感を生み、離れていると距離をとりたくなるのが人間。

逆に、違う価値観に触れた時
“目から鱗”的に納得、ストーンと腑に落ちることもあります。

価値観ってなんだろう?
って、あらためて考えさせられます。

一般的に想像するのが、自分が大切にしている生き方・考え方、ものの見方・捉え方、常識・・・といったところでしょうか。

自分の価値観を否定された時、ついつい自分という存在自体を否定されたように思う。
拡大解釈をすれば、自分という存在を否定されたということは、自分がこの世に存在する理由・意義がなくなるともとらえられます。
それは当人にとって由々しき事態。

その人の価値観と、その人の存在価値は全くもってイコールとはなり得ません。
というか、価値観が違うことは人それぞれに個性があるように、完全同一であるなんてことはないのです。

人の価値観に共感できなくても、価値観の違いを認めるはできると思います。

たとえ価値観の違う人を好きになれなくても
「そんな生き方があってもいいよね」
って、思えることが大事なんですね。
それが出来ないと、どんどんその価値観の違う人に対しての対立意識は高まり、それと同時に執着が募ってゆきます。

執着が募るということは、ある意味その価値観に支配されていくことになるんですね。
そんなのつまんないじゃないですか。
たとえば、帰宅してリラックスできるせっかくのひと時を
あるいは、1週間のヘトヘトになるまで仕事し、ようやく迎えた週末、楽しい晩餐を迎えるはずの時間が、全然楽しくならないんですからね。

価値観に支配されるとは、そういうことです。
あなたから楽しい時間を奪うんです。

あなたを支配し、苦しめるのは違う価値観ではなく
『違う価値観を赦せない価値観』
なんです。

違う価値観を赦せない価値観を手放すこと

まずはそこからかもしれません。