大きな悲しみ 小さな悲しみ

礼拝するネコ(=^x^=)

 

 

今日は

大きな悲しみ 小さな悲しみ

 

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随分前ですが、FORESTでワークショップした時のこと

その時のテーマのもと、参加者さん全員に体験のシェアをしていただきました

 

 

この仕事していて思うのですが

ほんとにみなさん、いろんな経験をされているんだなと

気づかされます

 

 

ワークショップを終え

何人かの参加者さんが

ご感想を送ってくださいました

 

 

 

その中に

他の参加者さんのシェアに対し

「私が経験したことに比べれば、悲しいに値しない」

という旨のご感想をいただきました

 

 

 

たしかに、その方のシェアは壮絶な内容でした

僕は経験したことないことだったので

安直に「お気持ちわかりますよ」と、慮ることもはばかられるような

 

 

でも、その時僕は、

「人が受ける悲しみに、大きいも小さいもないのではないでしょうか?」

そのような内容の文をお返しました

 

 

 

その人が受けた悲しみは主観です

その人しかわからなくて

たとえ客観的にみて「大したことない」と

思えるようなことであっても

その方にとっては、とても悲しいことだったりします

 

 

 

「オレほど辛い思いをした人はない」

「私ほど悲しい経験した人はいない」

 

 

 

という視点で、他人をみていくと

本人自身、苦しい現実からなかなか離れられなくなります

 

 

 

なぜなら、悲しみには大きいも小さいもないからです

その人の悲しみは唯一無二のもの

 

「あなたにこの苦しみがわかるはずがない」

「あなたの苦しみに比べたらまだまし」

 

 

 

比較のうえでの苦しみレベル査定に

意味はありません

 

 

もし、それが習慣化されているとしたら

ますます苦しみの幹(本人の)を太くさせるでしょう

 

 

 

なぜなら執着がそこにくっ付いてくるから

執着は比較から始まります

 

 

 

もし、自分は他人より悲しい経験をしている

と思われているようでしたら

他人の悲しみを汲んであげましょう

 

 

 

どちらが辛いかの査定はやめて

わからなくていいから汲んであげましょう

 

 

 

それがやがて、自分の苦しみを和らげてくれることになります

比較による執着から解放してくれます

 

 

 

「心は水に似ています

水は手に掴めるように見えて

実際には掴めません

掴んだと思った途端に水は逃げてしまう

水は掴むことはできないけれども

手ですくうことはできます

人の心も同じように掴むことはできない

けれども汲んであげることはできるでしょう」

 

 

随分前ですが、松原泰道(臨済宗の僧侶)さんがご存命の時

ビジネス誌『プレジデント』に寄稿されていた記事の一部です

 

 

今日も読んでくださり

ありがとうございます。

おかげさま(=^x^=)

 

 

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自由に

自然に

自分らしく

 

 

 

  

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